20012年会報

NPO法人 立山エベレスト友好協会 会報第10号 

2012年6月3日発行

立山・エベレスト友好の集い

■日 時: 2011年11月20日(日)15:00~18:00
■場 所: 丸新志鷹会館         
■参加者: 40名
■内 容:
☆クムジュンスクール創立50周年記念式典報告会
5月に現地を訪れた訪問団から報告があった。クムジュンスクールのお祝いとともに、これからの交流を考える上でも意義ある訪問だった。

講演

「ネパールからブータンへ -20年の交流そして未来へ-」

講 師:志鷹 新樹氏(丸新志鷹建設株式会社社長)

ネパールに続いてブータンでも新規建設事業を行うことになった丸新志鷹建設の志鷹社長より、
訪れたブータン王国の様子や事業の概要について映像を交えて話していただいた。

講演

「ブータン王国について」

講 師:高平喜代美氏(日本ブータン友好協会会員)

ブータン王国は、国民の心理的幸福などを指標とする「国民総幸福量」(GNH)を重視する国として知られている。実際に訪問した高平氏に、ブータン王国の概要、国民の生活の様子、食の事情等について詳しく紹介していただいた。折しも、ジグミ・ケサル国王夫妻が来日中で、国王夫妻と面会した際の様子もあわせて紹介していただいた。11月17日の国会演説でケサル国王は、東日本大震災について「いかなる国の国民も決してこのような苦難を経験すべきではありません。しかし仮にこのような不幸からより強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、それは日本と日本国民だ」と語り好感を集めました。
魅力的な若き指導者のもとでどのような国に成長していくのか、これからが楽しみな国です。

山歩きの会

「紅葉の立山カルデラ」

10月21日(木)実施

カルデラ.jpg
 恒例の山歩きの会。今年は立山カルデラ砂防博物館の体験学習会に参加して、立山カルデラを訪問しました。これまで2回雨天で中止となっていましたが、今年は好天に恵まれ、紅葉の立山カルデラを満喫しました。
 参加者7名。

共催事業

栗城史多氏特別講演会『NO LIMIT』

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■日時:2012年1月29日(日) 13:30~15:00
■場所:富山県教育文化会館
■主催:栗城史多氏講演会実行委員会
■共催:NPO法人立山エベレスト友好協会

日本人初のエベレスト単独無酸素登頂、そして世界初のインターネットによる登頂生中継への挑戦を試みた栗城氏。残念ながら登頂は成りませんでしたが、標高7500メートル以上の人間の生存が不可能な極限の世界「デス・ゾーン=死の世界」で感じた孤独や恐怖、さらに不安と向き合いながらその中に希望の光を見いだしてきた「自分を乗り越える方法」について、氏の魂のメッセージが語られました。
講演会聴講者は600名に達しました。

特別展示

「立山から南極へ  芦峅寺5人衆の活躍」

■日 時:2011年10月21日~11月23日     
■場 所:クムジュン2階展示場

クムジュン写真展.jpg北日本新聞2011年10月21日
 第1次南極観測隊に5名の立山ガイドが参加して、大活躍しました。戦前からの立山ガイドとしての活躍が認められ抜擢されての参加でした。会場では、南極での様子を伝える写真や、使用した装備、越冬した佐伯富男氏が持ち帰った越冬隊員全員のサイン入りの日章旗等が展示されて、観覧者から感嘆の声が聞かれました。

編集後記  

 芦峅小学校が休校となり、これまで中心的な活動だったクムジュンスクールとの学校同士の交流が難しくなりました。しかし、これまでの継続から得た多くの人と人とのつながりは、今後の交流にも大きな力になるものと信じています。これからの交流事業について具体的に考えていかなければならない時期ですので、会員諸氏からの積極的なご意見を事務局へお寄せ下さい。   (I)

寄稿

「ブータン王国での工事受注までの経緯」

志鷹 新樹氏(丸新志鷹建設株式会社社長・当会副理事長)

1.はじめに
ブータン王国は、王室の主導により民主化が進められているユニークな国です。最近日本でも知られるようになった「GNH(国民総幸福量)」という言葉は、1976年当時21歳だった4代国王によって提唱された「国民総幸福量は国民総生産よりも重要である」という言葉から生まれ、その基本方針は 1)健全な経済成長と開発、2)環境保全と持続的な利用、3)文化の保護と振興、4)良い統治 の4つの柱が基本方針になると考えられています。 30年の年月の経過と共に、GNHは具体的な施策として何ができるか問われる時代になっています。 1966年に創立したアジア開発銀行(ADB)は「貧困のないアジア・太平洋地域」というビジョンを掲げ、融資等を通じて国づくりを支援しています。2009年7月に行われたADBの国別支援戦略の中間評価では、中核的な4セクター(道路、電力および地方電化、都市インフラ、金融・民間セクター開発)におけるプログラムとプロジェクトを通じて貧困を削減する戦略と、ブータン王国政府の第10次計画とが合致しており、道路網プロジェクトを推進することとなりました。その一部が今回の道路工事です。ここでは当社がどのようにしてブータン王国で受注に至ったかについて紹介します。

2.ネパール共和国への進出
1970年に、プロスキーヤーの三浦雄一郎さんがエベレスト大滑降を敢行しました。そのとき同行したのが親戚の佐伯富男(第1次南極観測隊越冬隊員)でした。1990年、エベレストの山麓のクムジュンと芦峅寺との交流について富男に打診があり、推進していた最中に逝去してしまいました。富男の遺志を受け芦峅寺の有志8人がクムジュンスクールへ調査隊として訪問し、立山芦峅小学枚・クムジュンスクールの姉妹校提携をすることとしました。翌91年11月立山芦峅小学校で両校関係者、エドモント・ヒラリー卿夫妻、クリス・ボニントン氏、田部井淳子氏らの臨席のもと、姉妹校提携の調印をしました。私は調査団に参加し、PTAの世話をすることで関わりが深まっていきました。 交流は主に隔年で行う生徒の相互訪問でした。その頃のネパール王国は私が生まれた頃の日本とよく似て、懐かしささえも感じられましたが、インフラ整備が喫緊の課題であると感じたのと失業者があふれていました。クムジュンスクールの卒業生も働く場を求めていました。92年、首都カトマンズにネパール支店を開設しました。しかし、ネパールで外国企業がネパール政府の工事を請負うことは難しく、現地法人(エヴェレストニルマン)を介して、道路、小水力発電所、吊橋工事などを手掛けてきました。
メラムチ.jpg
丸新志鷹建設としては、アジア開発銀行(ADB)支援の「メラムチ給水プロジェクト」の迂回路改良工事を2004年末に落札。施工区間22km、予定工期18ケ月という内容でしたが、05年の政変により、同年3月に予定されていた契約が2008年5月にずれ込んだほか、着工後は共産主義反政府組織らの反対にもあい、工事は長期化しました。それにより、落札から約6年半を経た昨年4月末に1部区間を残して完成し、本年4月までメンテナンス期間にあります。 結果的に工期は36ケ月に及びましたが、当社が粘り強く遂行したことで、ネパール政府やカトマンズ市民から評価を得ることができたと考えています。こうした実績がもとで、昨年1月には、同国から「カルナリ川潅漑プロジェクト」を受注(受注金額約11億円)、10月にはADBが融資するブータン政府の国道工事3件(受注金額約15億円)も契約にも至ったのであります。
カルナリ川.jpg

3.おわりに
当社における海外事業展開は国際交流の一端より発したものでしたが、人のつながりの重要さを感じております。信頼できるパートナーが必要です。日本の会社としてネパールの仕事を受注するのに16年、ブータンでの受注に20年かかりました。 昨年国土交通省より、地方・中小建設企業のための海外進出ガイダンスが出され、海外進出の支援を頂いていると思いますが、せめて中小建設業者にも、日本のODA工事についての参加資格を与えて頂きたいものだと思います。また、ファイナンスの面についても支援を頂きたいものと思っています。当社のブータンでの仕事は始まったばかりです。 期待と不安と希望を持ちながら、社員一同頑張って行こうと思いますので、関係各位のご支援、ご鞭撻をよろしくお願いします。
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寄稿

「躍動するアジア」

岩峅 義博(オン・エアーとやま社長)

 ネパールでは新憲法の制定が遅れ、政治が混乱しています。考えてみれば、僕らが初めて姉妹校提携に訪問したのは、世界的に民主化のうねりが吹き荒れた時代でした。ナムチェバザールの丘でネパール初の総選挙の投票風景を撮影してから早や20年以上の時間が経過しています。この間、日本は高度経済成長から転げ落ち右往左往しています。僕は、丸新志鷹建設の現場に立ち会うため、昨年から、ブータンを1回、ネパールガンジーを2回訪れましたので、その際感じたことを記します。

 ブータンは、国王の結婚式の直後で祝賀ムードに包まれていました。ヒマラヤ東部の峰々をかすめてパロ空港に到着すると、ゴミ一つなく美しいのにびっくりしました。ネパールの喧騒とした風景から、僕らが生まれ田園時代へとタイムスリップした様相です。しかし建設ラッシュで、竹組の足場で器用に四階建てのゲストハウスを建設中でした。庭には簡易浄化槽が設置され、観光客の増大が感じ取られます。市場には、見たこともない野菜や果物が山済みに並べられ賑わっていました。1999年にテレビが導入され、若者は携帯電話片手に首都にたむろしています。農業国のブータンにとって他に産業はなく、情報だけが世界に開かれています。僕らの同級生が列車に乗って関東や関西に集団就職したような光景です。 歴史に学ぼうという機運がないわけではないのですが、日本がたどった道を中国やアジアの新興国が辿っているのではないかと考えるのは僕だけでしょうか。

 ネパールの国土の3分の1がタライ平原であると最近知りました。丸新志鷹建設の灌漑用水工事の現場は西ネパール最長のカルナリ川で、ちょうど神通川が大沢野で平野に流れ落ちるような地形の所です。見渡す限り地平線が続き、視界を遮るものが何もなく、初めて訪れた時は気温が45度。動くだけで汗が流れました。粘土質の田畑は乾季の間固く甲羅状に乾いています。稲の収穫が終わると麦や僅かばかりの野菜を植えて暮らしている人々にとって、農業用水が整備されれば、この一帯が穀倉地帯に生まれ変わることが保障され、インドを含め食糧難が解消されることでしょう。電気、飲み水、食糧で外貨獲得ができれば、ネパールの国づくりに大きく寄与すると考えます。しかし、国政の停滞や混乱はこうした人々の願いからかけ離れているように僕には映るのはどうしたことか・・・。
躍動するアジアと不安。混沌とした中で、日本の役割があるのではないか、特に団塊の世代の技術や知識が国境を越へてアジアで活かせるのではないかと思えてなりません。
クムジュンスクール.jpgクムジュンスクール50周年記念式典。参加者の熱気が溢れる。(2011年5月)